YOGA

ヨーガスートラⅠー5

あくまでマイペースにっと思ってると、どんどん時がすぎてゆく(笑)すでに2回スートラの講義が行ってしまいー、今週もう次のスートラが迫ってますが、自分の中でいろいろまとめるために、録画を見ながらまたあーでもこーでもと旅をしたいと思います。

魂の声を聞く

今回はセカンドシーズンのはじまり。このクラスを受け方についてなおさんが話してくれました。

自分は自分の魂の声から耳をそらさない

このクラスを受けている時間はこれを忘れないでと。人の意見を聞く時も、それを聞いて自分はどう思うのかを探るために聞く、必要ならば心でミュートをかけてスルーしたってOK!

自分にとって必要なもの、不必要なものを見極め、取捨選択する練習の場だと思ってもいいから、自分でクラスを受ける時の心の態度を決めてねと。

オンラインが急速に普及した今、私たちは溺れるほどの情報の波の中にいる。それは悪いことではないのだけど、溺れたら自分が見えなくなる。だから常に自分軸を持ってその情報を受け止めることが必要。

人からどう思われているか、人がどう思っているかを気にする日本人の気質もあり、オンラインに溢れる情報の多さにはじめはすご〜い!なんて感動するんだけど、多すぎる情報にだんだん疲れてくる。でもそれに気づかない、なんてことが起こっているのが今かなー、って感じる。

せっかく費やすこの時間、あくまで自分を中心に置いてスートラの旅を続けようと思いも新たに進めていきまーす!

1章5節

vṛttayaḥ pañcatayyaḥ kliṣṭa-akliṣṭāḥ

音を聞いた、唱えたときの感じと、意味を聞いたときで感覚が変わったと思ったら、意味の捉え方が違うと思った方が良いとなおさんは教えてくれた。音はパタンジャリが伝えた意図をそのままダイレクトに伝えるもの。それを私たちは魂で感じる。でも意味についてはいろんなフィルターがかかる。伝えてくれた人の単語の選び方、その単語に対する自分の理解の仕方諸々。そういうのがあるから、なおさんは意味に触れる時、辞書ではこの単語はこうなっているというのを持ってきてくれる。それは理解した先生、解釈本の選んだ言葉ではなくパタンジャリが紡いだ言葉の源を知り、それを元にパタンジャリが意図したものを自分の感覚で掴みに行くためだと。

スートラの意味を捉える時に大切なのは教えてくれる人が示す方向にあるエネルギー体をつかもうとすることだとも。うーん、深いね。同じエネルギー体をつかんでも、人によって表現は様々。言葉だけをつかんだら間違えるとな!自分を真ん中に持って、右脳と左脳を両方使って捉えに行く。そりゃ時間がかかるわけですな。

今回聞いた感覚で捉えたものはなるほどーみたいな安定感。kliṣṭa-akliṣṭāḥのところは発音するとkliṣṭākliṣṭāḥみたいになる。そのāの伸びが心地よい安定感をもたらしてくれていた気がする。

心の波、動き、マインド(vṛtti)は5種類(pañcatayyaḥ)があって、それらは傷つけたり邪魔したりするか(kliṣṭa)そうでないか(akliṣṭā)しかない。っとざっくり意訳。

「傷つけたり邪魔したり」と「そうでない」の2択になるのは、私たちってすでにPerfectだから。そのPerfectを傷つけるか、そうでないか(さらにサポートしてくれてたり)しかないってこと。私たちはひとつひとつを重箱のすみをつつくように難しく考えすぎて、自分で袋小路に迷い込んでいるのかも😅ざっくりとはいえ5種類(さらにざっくりすれば2択!!)と思えば対処法だってそんなにはたくさんないはずなんだから。

vṛttiが傷つけたり邪魔しているシチュエーションとそうでないシチュエーションとは?

こういうのは実例を考えてみるのが一番手っ取り早く理解できるってことで、身近な例えを探してみようコーナー!(笑

私が考えたのはやっぱり👶との時間のこと。

邪魔するシチュエーションとしては仕事の締め切りが近くて焦ってたり、約束の時間に遅れそうな時。無邪気に「遊んで〜❤️」とテクテク寄ってくる👶を邪険に扱う(笑)あっちでひとりで遊んでくれーって思うし、ちょっと要らんことしたり、支度をするのに脱走するとすぐ怒っちゃう💦

そうではないシチュエーションの時(サポートされる時)とは気持ちに余裕があって「こいつぅ可愛いなぁ❤️」とかって思ってる。そんな時は「何して遊ぼっかー?」って自分も楽しく時を過ごすことができる。

kliṣṭaから抜け出す方法は?

kliṣṭaの状態だと気分がそっちに持っていかれたり(ダークな気分、自己嫌悪とかね)する。それを放置するだけで、私たちはどんどん蝕まれていく。自分のvṛttiに傷つけられないためにはまずはそれを認識し、リセットできるような方法を持つこと。放置する、目をそらしていると、無意識でも私たちはkliṣṭaの状態に自ら許可を出していることになるから。

私の場合は旦那の「何をそんなにイライラしてんのー」っていう一言で、「だってー。」って思っても言い返せないから一息つくことができたり、終わらせようと思って囚われていた仕事を「まーいっか」って一旦手放してしまう。

その「まーいっか」の積み重ねでブログの更新が遅れるんだけど(笑)スートラの旅は別に逃げていかない。いーじゃないか!!時間が経ったことで思うことが変わったとしても、それは「今」の私が感じるリアルだから。

人によって「まーいっか」みたいなセリフは違ってくるし、自分でもいくつか持っとくと良いよねって話になりました。

人生を通してkliṣṭaとakliṣṭāのどちらに支配されたい?

自分がどんなvṛttiにエネルギーを注いでいるのか、ちゃんと認識すること。そして長い人生の中、もちろんakliṣṭāの連続で生きていきたい。でも人だから、kliṣṭaの時もたくさん訪れる。その状態をどうやったら手放せるのか、その方法を探し、自分の引き出しにストックし、試行錯誤して生きていくんだなーと。

例え話は日々のすごく細かいことだけど、その小さいことの積み重ねで人生は出来上がる。最後はけっこう壮大な話になったけど、コトの大小はあるにせよ、やることは同じだということを知ってるだけでもきっと楽になる。

これを唱えた時のような安定感、せっかちな私はまだ失うことがたまにある。それをちょっとずつリセットかけながら日々を過ごしていこうと思います。

※ここに載せた解釈はあくまで私なりの解釈です。哲学に正解はありません!あしからずみんなも自分でいろいろ思考の波をサーフィンしてみてね😀