YOGA

ヨーガスートラⅠー3 その1

あぁ、やっとここまでたどり着きました💦っていう気分。3月のスートラクラスがあったのは28日。気付いたらもうすぐ1ヶ月だー(つД`)ノ

東京が緊急事態宣言に巻き込まれるとなったあたりから、Zoomのこと、予約システムのこと、オンライン決済のことなどなど多方面よりご相談があり、さらに自分もオンラインクラスの展開に乗っけてもらうことになったのでその準備をしたり。さらにさらに急にオンラインクラスが増えて受けたいじゃん!みたいな欲にまみれたところもありorz

それでも生活の基本、👶を中心に時間を使うことに変わりはないので今までボーッとテレビを見てた時間とかが実のなる?方向に労力を使ってるって感じなので、自分のテンポは変わってませんがね😝

このスートラに関してのブログはなおさんが与えてくれる質問の自分の答えを導きつつ、今回のクラスで自分で理解したものをまとめているので、書くこと自体にも時間がかかる。。かかるというか費やしたくて費やしてる。ので書いてるうちにもさらにどんどん時が経ってゆく〜ららら〜🤣

1章3節

tadā draṣṭuḥ svarūpe’vasthānam
tadā draṣṭuḥ svarūpe-avasthānam

この節から私はまともに人から教えを乞うたことがない。(部分、部分ピックアップで教えてもらったものはもちろんあるけどね)本を通して自己解釈していたものが多い。そういう学び方をしていると、よほど自分の身に「あ!そうかも!コレかも?」みたいな実感が湧く内容でない限りは華麗にスルーされていて、深く印象に残ることが難しい。

今回、このクラスを受けて、改めていつも読んでた本(コレ👇)を読んでみたところ


けっこうわかり易い例えで書いてあって、なんで印象に残ってないんだろう?ぐらいのことだった(爆笑)

このスートラのチャンティングを聞いてみてどんな感じ?と言われて、音として出てくる「タダー(tadā)」からの日本語の「ただ」がもちろん浮かんで(単純w)「ただそこにある」って感じだなーと思った。

「タダー(tadā)」を日本語にすると「その時」だったんだけど、その時とはひとつ前のスートラを指し、ってことは前に自分で書いた前のスートラの解釈を引用してみると、、だ。

「自分が選んだものと自分の心をつなげることができて、外のものが一切邪魔していない状態」なヨガな時ってことになる。

続きの訳は、「観る者(自己)はありのままの姿にとどまる」となるんだけど、この「観る」と「見る」はどう違う?という話が面白かった。「観る」は第三者的視点からみている。「見る」は主観的にみている。漢字?日本語ってばよくできてるなーと思って。外の出来事を客観的に見る時には例えば「観戦する」とかだと「観」使ってるし、心は「観察する」という。心は目では見えない内側のものを第三者的に外からみるから「観」を使ってるんだわー!と思うと妙に納得した。

そして、「見る」についてはなおさんがくれたこのスートラを掘り下げて理解するための質問その1の答えで出てきた。

人はなぜ、とどまりづらいのか?とどまる選択をできないのか?

ここでIさんが出してくれた答えが「見ちゃうからですねー🤣」(👈この言い方が気に入った私w)だった。

そうなのよ、見ちゃう、見えちゃうからなのよ(笑)この見るは完全に視覚を使ったもの。パッと目に届いたものが本質かどうか見極めることなく受け入れてしまうこと。そんな印象。だからその情報に踊らされてしまうし、なんなら踊らされていることにすら気付かないことだってある。情報過多と言われる今、情報の選別を冷静にできるかどうかがとどまれるかとどまれないかを左右すると言っても過言ではない!

なおさんも言っていたけれど、今までの私たちの多くは身近に発せられる情報に埋もれ、溺れ、それにつられて
・何か発信しなければ
・充実していなければ
・置いていかれてしまう
みたいな強迫観念で心から伝えたいことではなくて、ただただSNSなどの媒体に使われているんじゃないか?ってこと。

それが今、このコロナによって流れを変えられた人間たちがいろんなことに気づくかもしれない局面にいる。

なんかそういうことについて、そのうち毒入り?な本音で書こうかと思って、今noteのアカウントがあるんだけど。とりあえずはこのブログも書き切れないあたり、私がそこまで手が回らないから放置ってて(笑)今のところ、毒舌じゃなくてただの内職仕事の備忘録になっているwそのうちぼちぼちでUPします😂

ちょっと話がそれたけど😅

「見る」の主観的なところの困ったところは「見た」ものから波立った気持ちと自分を同調させてしまうところにもある。波立った気持ちを「観る」ことができていれば、実はなんてーことはないのに。「見る」と「観る」の間には色んな「余裕」が必要なのだ。その余裕についてはちょっと後で。

とにかく、この質問に関して自分としての答えを導いてみたところ・・・

最近、私は割ととどまれてると自分では思っていて(それでも最初に書いたみたいな振り回されるってのはあるけどねw)それは自分の家族のことを根底に置いて自分のチョイスを決めようという揺るがない意思をもっていることと、情報の選別がそこそこできているから。ある程度自分以外の人が絡むことで、自分自身の選択のフレキシブルさは減るけど、逆に捉えると考えずとも選択肢が狭まるからフラフラしようがないってところもある。

そんな環境を窮屈と感じてしまう人もいるけれど、私は心がそれで満足していてそれ以上動きたいと思ってないため、不必要な波に揉まれに行ってしまうことがない。その満足に至るまでの過程で私が持ち合わせている「余裕」は時間的なもの(仕事に追われてない!やったら良さそうだなと思っても、時間が足りないと気付いたらアッサリ諦める、などなど)や精神的なもの(私の中では実の親より信頼している旦那という存在がそばにいることや、守るべき👶がいること)がある。

とどまり方の違いとは?

とどまり方とは?無理矢理建前とかで強制してとどまらせる方法と、無理ない範囲で努力をしてとどまることが自然になるように方向付ける方法と二つあるよね、って話になり。それらの違いはなんだろね?っというのが2つ目の質問。

何度もこの問いを自分に問いかけているうちに思ったのは、前者はとどまることが目的になってしまっている。後者はとどまることができた先が目的であって、とどまること自体はその途中経過であるってことだった。

前者のやり方はよくわかる例えだと、やりたくないことをやったら体を壊した、とか、ハタから見てると「無理してるなー」ってわかるのに、本人はその無理を重ねるうちに麻痺ってきちゃってデキると勘違いしてる、なーんてことで、それを続けること自体、自分のカラダやココロにとって「ヒムサ(暴力的)」であってなんかしら目に見えて「とどまる」を手に入れられるかもしれないけど、それは本当の「とどまる」からはほど遠い。

後者は無理のない範囲でっていう手探りもあるし、それが自然と、気付けばそうなったっていう風に持ってくわけだから、そりゃぁもう時間がかかる。でもひとつずつ丁寧に自分に向き合って、カラダ、ココロのいうことを聞いていくわけだから、どんどん本当の「とどまる」に近づいていく。

あー、またすごく長くなってきちゃったなー(笑)ほんと、ジャーニーだ!ふたつに分けようw次へ続くー!

※ここに載せた解釈はあくまで私なりの解釈です。哲学に正解はありません!あしからずみんなも自分でいろいろ思考の波をサーフィンしてみてね😀

Tomoko Nakabu Yamada
GītāTomoko
愛知県、知多半島在住。 大学進学と共に上京し、約20年東京で過ごしたが、結婚を機に離れる。現在は主婦? 新卒で入社した会社は某電気メーカー子会社で半導体論理設計エンジニアとして開発業務に励む。社会人生活15年で7社を渡り歩き、さらに副業を掛け持ちしていた異色の経歴を持つ。2009年よりヨガインストラクターとしての活動をはじめ、現在もオンラインを中心に指導を続けている。 2019年に長女が産まれ、育児奮闘中!
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