YOGA

月1ヨガ部 ”アヒムサ”

いろいろ時があっという間に過ぎてっちゃってるのですが
自分の備忘録も込めて、今年は参加しているヨガ部の話とか
書いていこうと思っています。
そんなこんなもう一年が四分の一終わってますがね〜はははっ(ー_ー;)

ヨガ部の今までのテーマは
Pre 「atha」(アタ)
1st 「Īśvara」(イーシュワラ)
2nd 「Guru」(グル)

とやってきて、どれも壮大なテーマだったんだけど
次どうしようかー?でやっぱりヨガの八支則の要であるこれでしょ?ってことで

3rd 「ahimsa」(アヒムサ)

でした。

日本語にすると「非暴力」と訳される言葉ですが
暴力とはいったい?

暴力=なにかを傷つけている
それは物理的なものはもちろん、言葉であったり、心であったり。。。

じゃあ傷つくってなんだろう?っと掘ったらいくらでも深くなる。

今日本にたくさん存在する
「いじめ」
「パワハラ」
なんかは傷つけるの代表的なものと考えられる。

でも、その線引きは誰にもわからない。
どこからが「いじめ」?
どこからが「パワハラ」?
その定規は人それぞれ、その人の中にしかない。

だからこそ人は、人の目を気にするのかもしれないけど
わかりやすく「いじめ」
わかりやすく「パワハラ」
以外にも、「無関心」という暴力だって存在する。

極端な話、「触らぬ神に・・・なんとやら」って思って無関心貫いたことも
人を傷つけるになってしまうことがある。

そう思うと、すべての側面を眺めてみたら、「完全に傷つけない」なんてものは
存在しないんじゃないかと思ったりなんかして。

非暴力の象徴として知られるのは、インド独立の指導者マハトマ・ガンジー
彼は非暴力を推進した人。だけれども、暗殺という形で命を落とした。
非暴力を貫けば、非暴力で報いられる?
そんなこともない。非暴力の考えも、誰かにとっては暴力なのかもしれないから?
その暴力をふるったひとの言い分は身勝手かもしれない。
でも、その人の背景にとっては仕方のない定規だったのかもしれない。

私的には堂々巡りしてしまったなーっていうのが実際のところ。
そして、思い出したのはこの言葉だった。

”自分と未来は変えられるけど、他人と過去はかえられない”

他人の定規をどんなに推し量ったとしても、その人でない以上
その定規があってたかはわからない。
他人を変えることができないってことは、定規をかえることができないってこと。
だから、人を傷つけないって、本当に難しいことだなと感じました。

ここまでは、わかりやすい自分と外側の話。

じゃあ、自分で自分に非暴力であるとは?
自分の内側を掘り返してみると、自分で自分を傷つけてることに
目を背けていた事実を目の当たりにして、唖然としてみたり。
本当は苦しいことを思い出したりして、涙してみたり。

自分というものにうまく向き合えなかったとき
自分を押し殺していることに目を背けていたとき

人はもろくも壊れてしまうことがある。
自分では気づかないうちに、負の言葉しか発していない自分だったりする。

私は完全に自分と向き合えているか絶対の自信があるなんて
言い切れないけれど、
ただ、自分がなにかを選ぶときに、自分が納得するだけの理由は持っておこうと
常日頃から思っている。

ただただ、文句しか出てこない、それを発するだけで満足するような人はたくさんいるんだけど
「自分がなぜいまそうなったのか」
「その状況におかれてしまった状態を作り出した理由はなんだったのか」
もしかすると、そこに身をおいた理由が見つかれば
天秤にかけると大したことじゃなかったり
自分がなにかを変えれば状況は変わるのに、なにもしていないだけだったり
そんなことはたくさん見えてくるんじゃないかなと思うときがある。

人は外側の影響をたくさん受けるから
自分の理由がどんなに納得できるものでも
自分でどうしようもないものが原因で、納得いかないが上回ってしまうことだってある。

そんなとき、自分の心の奥底はどう思ってるのか。
ちゃんと聞いてみた上で、道を調整することが自分に対しての
非暴力じゃないかななんて。

あー、わかっていたけど、とてつも長くなってしまったw
ま、備忘録?いまの私を記したってことで。

最後まで読んでくれた人は、おつかれさまでした。ありがとう♡
こんなことを考える人もいるんだなーなんて、サラリと読んでもらえたらw
(サラリと読むには長すぎるだろ!!)

こんな按配にみんなの考えをシェアしている、マニアックすぎる
ヨガ部なんです。ってことで。強引にまとめる(笑